アーリーリタイアを目指す独身貴族

30代独身男性です。近々FIRE(やセミリタイア)予定です。

感想_実力も運のうち 能力主義は正義か?

サンデル教授の「実力も運のうち 能力主義は正義か?」という本の感想です。

前提として私は選民思想、優生思想的だし、メリトクラシーに概ね肯定的なので、本書の議論については否定的です。

 

論点1

個人的には1~4章は(議論としては)あまり重要でなく、この部分はメリトクラシー能力主義)が本当に正しいか?変えるべき点はないのか?という考察ではなく、過去の政治に対する批判であったり、機会の平等性が実際は担保されてないとかそういう話がメインです。

一般的な議論の建付けとしては、機会の平等性をきちんと担保した上で、能力主義を実践すると格差等が発生するがそれをどう思うか?という問題です。

5章からが本番です。

私が賛成できる本書のロジックについては、

・給料は道徳的価値ではなく市場価値で決まる

・才能があるかどうかは運であり、評価に値しない

保有している才能が世の中で評価されるかは運であり、評価に値しない

という点には同意できます。

本書ではアームレスリングの例が出されていて、実際、天性の才能を持っている人であっても野球やバスケなどのメジャースポーツであれば大金持ちになれますが、マイナースポーツでは無理ですし、数百年前のような時代に生まれていたらダメでしょう。

その意味では、才能があるからといって誇るべきではないという理屈は同意できます。

 

私があまり納得感がないのは、p.192で展開される努力に対する批判です。本書ではロールズを引用して努力についても評価しないという考えのようです

 

人は、自分の才能を磨くために努力できる優れた気質に値するという主張は、同じように問題がある。というのも、そうした気質は大部分、当人が自分の手柄にはできない幸福な家庭や社会環境に依存しているからだ。功績という概念はこうした事例には当てはまらないように思える。

この点について本書ではあまり詳しい説明がないが、私は納得感がない。

 

例えば、高学歴の人間が受験勉強を頑張れるのは、この努力が将来評価されるという情報を親や教師から得ていたり、何でもかんでも頭ごなしにして学習性無力感に陥ることがないようなまともな家庭という影響はあるだろう。また、東大主席の山口真由氏は司法試験を受ける際に、1日19.5時間勉強し、幻覚を見ることもあったそうなので、努力できるのも才能という側面を完全に否定することは難しい。

 

しかしながら、大半の日本での家庭や学校では勉強の重要性について言われているし、兄弟や姉妹でほぼ同じ育てられ方をしても努力する人もいればしない人もいるわけで、本人の自由意志による部分も相当あるであろう(全てではないと思う)。

また、高学歴の社会人であっても、英語の勉強を積極的にする人もいれば、しない人もいる。高学歴なのだから努力する能力はあっても、個人のキャリア観で選択をしていると思う。つまり、外資に転職してバリバリ働きたい人は英語を学ぶし、日本企業の待遇で満足している人はわざわざ勉強しない。

自分のことを思い返しても、私が大学院で優秀な成績だっとのは才能があったという運ゲー要素は強いし、難関大学に合格できたのも地頭が良かったという側面は否定出来ないだろう。一方で塾や予備校の調査で知られているように基本的に、偏差値と勉強時間には相関があって、早慶ならこのくらいの勉強時間が必要という目安もあり、(上下する部分は才能だとしても)単純に努力の量の問題である。もし私が地頭が悪ければ今のように難関大学に合格できず、駅弁大学止まりだったかもしれない。しかしベースラインの努力については認められて然るべきでは?と感じる。

 

ロールズ等が言うように一部、自分の手には負えない外部要因であることは否定しないが、我々に自由意志が一切なくすべて決定論的に動いているという前提は無理があると思うし、自由意志に基づいて選択し、努力して高い報酬を得ているのはそれを再分配するのは正義ではないと思う。

 

また、恵まれた親の元で日本で言えばSAPIX等の教育を受け、例えばそういったグループにおける平均的な進学先であったとしよう(例えば、真偽のほどはともかくMARCHが平均だとしよう)

では、MARCHに行くために(遊んでいる)庶民家庭を片目にSAPIXに連れて行かれ受験勉強を親から命令され努力した学生が評価されるのは不当なのだろうか?つまり、端的に言えば、”強制された努力は評価に値するか?”という問題について触れられていればもっと有意義な本になったと思われる。

 

 

論点2

p.219に「自然的運」と「選択的運」という概念がある。詳細は不明だが前者は隕石の被害者、後者は賭けに負けるギャンブラーのイメージで、運の平等主義者と呼ばれる人たちは前者は救うべきだが、後者は自業自得という整理らしい。

 

私はこれについて、どちらも救済の必要がないと考える。例えば自然災害は保険に入ることでリスクをヘッジできるわけで、それに加入してないのは落ち度があるからです。もちろん現実問題として、保険会社は台風や地震といった災害について保険を販売してるけど隕石の落下や戦争、テロといったものに対する保険は用意してないわけですが、それを政府が保険機能を果たすということになるのは仕方ないですが、「自然的運」、「選択的運」どちらであっても適切にヘッジできる商品が一般に市場に流通していて、それの保険料を払うことをケチっている人間を税金で助けるというのは反対です。

(読みながら書いてるので書いた後にp.220に書かれてることに気づいた。。。)

 

遺伝子宝くじについて 

part1しか見あたらないので元論文みえない。

Ronald Dworkin – CEDIRES

https://cedires.com/wp-content/uploads/2019/12/Dworkin_Ronald_Equality-of-Welfare_1981.pdf

 

まとめ、感想

論点1における定性的な議論としての成功について本人の努力だけではないという主張は正しいと思いますが、大事な点は定量的にどのくらいか?という話であり、すべてが本人の努力によるものではないというのは学生も十分承知の上ではないかと思われる。

 

哲学的に重要な話だと私が思うのは、”強制された努力は評価に値するか?”という点です。これは回帰分析等をしても答えが出る話ではないので、ぜひサンデル教授にはこの点も意見を言ってほしい。私は努力厨的な考えがあるので評価に値するという立場