アーリーリタイアを目指す独身貴族

30代独身男性です。近々FIRE(やセミリタイア)予定です。

弱者男性論について

フェミニズム等に触れています。嫌いな方はブラウザバックおねがいします

 

 

 

この投稿は、以下の記事を読んだ感想となりますので、

先に当該記事を読んで頂くと話がわかりやすいです。

gendai.ismedia.jp

 

まず、ベンジャミン・クリッツァー氏の主張が書かれた記事の内容を整理しましょう

弱者男性論がネット上には存在し、彼らは経済的能力がなく、異性のパートナーがいないことで、承認欲求が満たされてないことを嘆いている。

そしてその辛さが世間から無視されている(なぜならリベラルは直感的に可愛そうな存在にしか焦点をあてないから)ことを彼らは不満に思っていて、(女性の権利向上を目指す)フェミニズムと対立している。

だが、クリッツァー氏としては、この男性論に与しない(以下引用)

結論から言うと、わたしには、かなり疑わしく思える。弱者男性論の多くは、男性のつらさの原因は「女性」にあるとして、女性たちの問題や責任を述べ立てることで女性に対する憎しみや敵意を煽ることに終始しているからだ。

 

弱者男性論者たちの議論の問題点は、「女性」という属性(もしくは集団)に統計的・平均的に備わっている傾向の責任を、個人としての女性たちに負わせようとする、ということにある。「だれと結婚するか」という選択は個人に委ねられるべきことであり、実際に現代の社会では婚姻の自由は基本的人権として保障されている。また、女性が結婚相手を選択するときには相手の年収も考慮するかもしれないが、それと同時に、人格や相性や容姿などの他の要素も考慮しているだろう。

個々人の女性たちの選択が集積した結果として「上昇婚志向」という現象が統計的に存在するとしても、その責任を個々の女性たちに負わせることはできない。「年収が低くて結婚相手もいないことで不幸になっている男性を救うために、女性は年収の低い男性を結婚相手に選ぶべきだ」と要請したり、個々の女性を論難したりすることは、規範的な議論としては筋が通っておらず、そして現実的にも実行不可能な解決策であるのだ。

 さて、この議論のメインの主張となるのは、以下の部分でしょう。

(色付けは管理者によるものです)

女性」という属性(もしくは集団)に統計的・平均的に備わっている傾向の責任を、個人としての女性たちに負わせようとする

この ベンジャミン・クリッツァー氏の主張は妥当でしょうか?

 

たしかにこの主張をTrueだとすると、男性弱者論は否定されるでしょう

ですが、同時にフェミニストの多くの主張も否定されるのではないでしょうか?

例えば、最近問題となるルッキズムの問題も、男性という集団が統計的・平均的に

容姿がいい女性を好む、年齢が若い女性を好むという傾向があり、それに基づいているのではないでしょうか?

あるいはさらに、(現代であるかは疑問ですが)就職面接で、個々の面接官の傾向はさまざであるが、平均的には、黒人は無能で白人は優秀という人種差別的偏見を集団でもっていたとしましょう。これを批判するという行為もクリッツァー氏の主張では否定されるのではないでしょうか?

 

私は男性弱者論も一定の理があると思っています。

もちろん、経済的能力がないから、女性に無理やり、貧乏な男性と結婚すべきだと主張したいわけではありません。

 

それは、フェミニズムや各種ダイバーシティ推進活動によって、様々な社会的調整(アファーマティブ・アクションや優遇制度)があるせいで、不適切なカテゴライズによって、損をしている人がいるという考えです。

 

日本のジェンダーギャップ指数の問題で言えば、政治家、企業における役員等の女性の比率が低いことが日本の順位を下げている要因だと思われます。また、医学部の差別問題もありました。

しかし、男性弱者論を唱える男性にとって、これらはあまり関係のないことでしょう。

なぜなら、これらは男女差別の問題ではなく、”上流階級”における男女差別だからです。彼らはおそらく、所得がすくないと言っていることから非正規雇用であったり、底辺正社員でしょう。

年功序列をベースにした大企業に所属はしていないでしょうし、医学部にもいけないし、政治家なんて無縁の世界でしょう。

派遣労働の世界では、別に男性だからすごく有利とか女性だから極端に不利というのはないでしょう。なぜなら、派遣を使う側からすると、派遣労働者というのは、人間ではなくパーツや機能だからです。

 

つまり男性弱者論が言っているのは、男性が優遇される社会は上流階級に限ったものであり、底辺においてはリベラル的なかわいそう論で、女性やマイノリティは保護を受けやすいが、自分たちは恩恵にあずかれない。表にするとこんな感じです

 

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この主張は個人的にはそこまで違和感がなく、また自殺者、ホームレスの男性が多く、女性がすくないといった統計的事実とも整合的です

先述したように、この社会には女性差別がいまだに存在している。女性に対する差別は、制度に関わるものであることが多い。つらさの原因が制度的なものである場合には、個人でどう対応してもつらさは解消しきれない代わりに、制度を変えることでつらさの原因に根本から対処することができる。たとえば、入試のルールを公正にする、採用や昇進の際に男女で差別をおこなわないといった対応が考えられるだろう。

このようにおっしゃっているが、実際には制度上で女性が不利になっているものは多くないと思われる。例えば入試は、医学部の面接ははっきりと男女で下駄を履かせるのは制度の問題であるが、露骨にそういうことをせずに任せている場合、制度の問題ではないし、東大の男女比は客観的なルールに基づいて選抜されているのだから制度の問題とは言えないだろう。採用や昇進も、恋愛においてどういう人を好むかと同じであり、制度の問題ではないだろう。もちろん昔は制度として女性は雇わない会社もあったろうが、現代でそういう会社はないだろう。

 

もちろん以下の点については前述のとおり、同意する

しかし、女性やパートナーがいないことによる孤独や承認の問題は、少なくとも近代的なルールを前提するならば、制度をどう変えても対処することは難しい。個々人が自分の人生に向きあいながら対応せざるを得ないものだ。

 

今回の議論ではあまり触れませんでしたが、徴兵制問題(陸軍は体力が必要でしょうが、海軍や空軍はそこまで男女の体力の問題があるのでしょうか?私は軍隊についてあまり知らないのでまちがってるかもしれません)

離婚時の親権など男性が不利になるなど制度的差別はあると思っています。

危険な労働を男性がする傾向にあること、自殺やホームレスなどに男性が多い

ことがどこまで制度的問題でどこからが選好の問題かは微妙ですが

これらも問題だと感じています。

こういった問題をとりあげた本として、ワレン・ファレルの以下の本を挙げておきます

これも少し男性側に偏りすぎて、やや客観的ではない印象を受けましたが

興味深い内容です。

 

本当の意味で差別がなく、リスクや能力に応じた待遇が得られる世界が訪れることを祈ってます!